Magoの旅と音楽と

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大阪人権博物館・リバティおおさかに行きました

 先日、大阪人権博物館「リバティおおさか」に行きました。

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 ま新しい結構大きな施設。
 と思ったら、入り口はもっと向こうだとか。

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 なかなか年季の入った建物が入り口でした。
 館名の揮毫は水上勉によるもの。

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 いかにも博物館、といった重厚な雰囲気です。
 もともと学校があったところに建てられたのだとか。
 近代産業史、近代民俗史好きのぼくとしては、いちど足を運んでみたかったところです。

 さて、人権博物館ですから、軽い内容ではありません。
 もちろん地域差別や、民族差別、男女差別など、様々な差別に取り組んだ展示がなされています。
 パネルによる展示と、ビデオによる展示が、各コーナーにまとめられています。
 どれもとても濃い内容です。

 内容柄、どうしても文字による展示が多くなりがちです。
 事細かに読んで、ビデオを見て・・・と、進むと、とても時間が足りません。
 とにかく内容が濃いんですね。
 そして、伝わる理不尽さと謎。

 まあ、理不尽な扱いを受けた人の話は、学校でも人権学習などで習う機会があります。
 でも、今回ぼくがここに足を運んで得たものは、「謎」。
 「私の価値観と差別」という展示です。
 普通のオトナ(このカテゴライズが差別的?)なら、「いい学校」「いい仕事」「いい暮らし」などは、差別や人権と密接な結びつきが想像でき、導き出される道筋がわかります。
 でも「豊かな国がいい」「健全でありたい」「清潔にしていたい」「美しくなりたい」といった欲望、欲求も、差別事象をことさら列記することなく「健康でありたい?」と語りかけの口調で展示されているのです。
 謎です。
 ぼくはどうすればいいのでしょう。

 自身が、いえ多くの人が目指すべき目標であると固定化している「健全」という観念は、やはり同時に差別をも生み出すきっかけたり得ると、この展示は問うているのだと思われます。
 ほとんど禅問答のような。
 しかし、気付かなかったところ、気付こうとしなかったところをちくりと刺された痛みがあるのも事実です。
 普段の生活で、得ようとしても得られない「健全」や「健全」から阻害された人々の立場、というものに考えを及ばせたことがあったでしょうか。
 福祉や慈善とはなんでしょう。

 上を見れば、下があります。
 上下は貴賤に限りません。
 左右でも同じ。
 右に左はつきもの。
 美しいものがあれば、美しくないものがあります。

 そもそもカテゴライズが、すべての差別を引き起こす元凶なのかもしれません。
 人は群れて生活しています。
 当然そこではいろいろな属性が発生し、人は種々にカテゴライズされます。
 そんなこと普段は気にせずに生活していますよね。
 「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」という言葉があります。
 差別などしていない、という心。
 差別しているかもしれない、という気づき。
 みんなで気をつければ、無意味な誤解は解けることも多いと思います。

 なんだか、書いていて分からなくなってきました。
 とにかく、謎、なんです。
 こうして考えるきっかけを与えてもらっただけで、足を運んだかいがありました。

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 ところで、入館料を払うと、レシートとパンフレットが手渡されました。
 博物館はいろいろな人が足を運びます。
 ぼくのように、「人権」を学ぶつもりではないのに来館するものもいます。
 できれば、チケットはある程度力を入れてもらえるといいんだけど・・・。
 と、「美しいチケット」へのこだわりは・・・?
 それとも、人権を学ぶためではなく足を運ぶという来館者というカテゴリーは・・・?
 ???