Magoの旅と音楽と

旅と音楽について書いています。

東高野街道 第5回 心合寺山古墳~恩智神社前

街道に戻って、南を目指します。

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しばらく行くと、王祖神社の鳥居です。
ここから神社まで500mにわたって松並木が続いていたそうです。
今は一番手前に1本あるだけですね。
古い商店がいい味出しています。

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横には新旧の道標が立てられていました。
真新しいものと「高安遊園地○○○近道」と書かれたもの。
こんな所に遊園地があったのか、と思ったら、こちらのブログによれば、どうやらそうではないそうです。
この辺り一帯を指すそうで。

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この辺りの地名は千塚といいます。
もうこの旅ではよく見かけるような気がする地名です。
塚がいっぱいあったのでしょう。
ちなみに街道はご覧の様子で、歩くのに適しておりません。

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小さな水路も、天井側のように高いところを流れています。
ちょっと盛りあがっていると思ったら、ピークには水路が流れています。

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かかる橋は、「無名橋」。
そういう名前なのか、それとも名前がないのか。

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八尾といえば、ミキハウス

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さきほどの無名橋と変わらない規模の橋ですが、こちらは名前がついています。
山畑川橋。
なぜか横に立派な石碑まであります。

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近鉄信貴線をくぐります。
いいタイミングで電車、来ません。
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ようやく、ちょっと歩くためのような道になりました。
でも、往来が激しい。

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立派な天理教の教会。

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細い道に流れ込む、車の列。
すぐ横に立派な国道170号線があるんですよ。
旧道は、一般自動車通行禁止にすればいいのに。
上の写真の辻のところには道標があります。

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「すぐ信貴山毘沙門」。
もうお分かりですね。
ぜんぜん「すぐ」ではありません。
「この道、信貴山毘沙門へ」くらいの意味なのでしょう。
裏面には道頓堀の料理屋さんらしきお名前が入っています。

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辻向かいにも道標があります。
こちらも「毘沙門天王」と信貴山を指すようです。
違う面は、「和州信貴道是40丁」?
さらに宝永5年とはっきり書かれています。
宝永5年は1708年。
相当に古いですね。

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車は列をなして流れ込みます。
やめましょうよ。
こんな所を抜け道に使うのは。

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法華塔があります。
垣内村一里塚(西塚)跡だそうです。
街道を挟んで、少し入ると・・・。

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ちゃんと手入れの行き届いた一里塚(東塚)が残されていました。
横の説明石碑によれば、「数年前までは善根寺、四条、楽音寺にもあったがいまはここだけである」。
この「数年前」は、昭和50年台初頭を指すようです。
そんなころまであったのに、もったいない。

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更地の横に立つ「左 元善光寺」の碑。
大正7年に建てられたものなのですが、面白いのは建立者。
「大阪善女講」。
善き行いをするご婦人方の集まりなのでしょうが、今もあるのでしょうか。
今でいうソロプチミストのような活動なのでしょうか。

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釣り堀。
おじさんたちが片付け中。
親子連れ用に、金魚も釣れるようです。

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旧高安の中心地と思われる地区。
栄えていたのでしょう。

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八尾で東高野街道というと、必ず出てくるこのお家。
立派であります。
サッシの色も気遣っておられるようで、がんばって残されています。
ここは恩智神社前。

つづく。